第一次世界大戦を終わらせた!ドイツ革命とワイマール共和国の誕生
皆さんは第一次世界大戦を知っているでしょうか?この戦争は歴史上初めての世界大戦で多くの死者を出しました。
そんな歴史上の中でも最大級の戦争を終わらせたのは、中央同盟国の主軸であったドイツ帝国に起こった革命でした。
そんなドイツ革命について今回は分かりやすくまとめてきたので是非ご覧ください。
1. ドイツ帝国とドイツ革命
ドイツ共和国の前進、ドイツ帝国
まず、ドイツ共和国の前進であるドイツ帝国について軽く説明していきます。
まず、この国は1871年にビスマルクによって建国されました。
当時のドイツ帝国は帝政で皇帝ヴィルヘルム2世が治める君主主義国家です。
世界1位の軍事力と世界2位の経済力と世界2位の海軍力という誰がどう見ても超大国でした。
第一次世界大戦
そんなドイツ帝国でしたが1914年に第一次世界大戦に巻き込まれてしまいます。
敵国は
フランス イギリス ロシア
という大国でした。
初戦はドイツ率いる中央同盟国が優勢でした。しかし、大戦が長期化するにつれ資源に劣るドイツは劣勢となり戦争中に約250万人が死亡しました。
相次ぐ敗戦により皇帝ヴィルヘルム2世の権力を失い、代わりに対ロシア戦線の英雄と言われていたルーデンドルフという人が国政を左右しました。
この事をルーデンドルフ独裁と言います。
権力の座についたルーデンドルフは東部戦線(ロシア戦線)に大規模な反撃を開始し、ロシア軍を壊滅させ1918年にブレスト=リトフスク条約を締結させました。
その後、東部戦線に配置してあったドイツ軍を急いで西部戦線(フランス戦線)に移動させ皇帝の戦いをしかけました。
見事この皇帝の戦いは成功、しかし補給が届かなくなり攻勢は止まりました。
その後、アメリカ軍も敵側で参戦し兵力でも一気に劣勢となり、皇帝の戦いで得た領土も奪い返されてしまいました。
キール軍港での反乱
敗戦に敗戦を重ねたドイツはアメリカを仲介に和平を結ぼうとしていました。しかし、終戦を快く思わなかった組織がありました。ドイツ海軍です。
ドイツ海軍は膨大な予算を割り当てられていましたが、戦争中に十分な戦果が挙げられておらず、海軍の指導部はこのまま終戦となれば海軍の名誉は失墜し、自らの権力も危ういと考えました。
そんなドイツ海軍の指導部は最後に少しでも戦果を挙げるためにヴィルヘルムスハーフェンの水兵に対し出撃命令を下しました。
しかし、戦うには食料もなかったうえにこの命令は皇帝の許可のない違法行為だったため水兵たちは命令を拒否しました。
命令を無視された指導部は600人の水兵を逮捕し、抗議デモへの発砲を命じ、8人が死亡しました。
この指導部の暴走によりキール軍港では大規模な反乱が勃発。さらに長期間にわたって行われた戦争に嫌気がさしていた国民も反乱に参加し皇帝に退陣を要求する大規模なデモに発展しました。
ドイツ共和国の誕生
この事態を収拾させるのは不可能だと見た当時の帝国宰相はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に退陣を要求。しかしヴィルヘルム2世は退陣を拒否しました。
手の打ちようがなくなった帝国宰相は辞任を発表。議会の多数を占めていた社会民主党の党首フリードリヒ エーベルトに政権を譲渡し、その日のうちに皇帝の退陣とドイツ共和国の成立の宣言をしました。
これによりヴィルヘルム1世が建国したドイツ帝国は僅か47年で滅亡することになりました
その後のヴィルヘルム2世はオランダへ亡命しました。
首相となったエーベルトはすぐに連合国との休戦協定に調印し、第一次世界大戦は終戦しました。
2. 戦後のドイツ
戦後処理
戦後、エーベルトは直ちにアメリカに対し食料援助を要請、飢餓に苦しむ国民に対し食料を配布し、デモを鎮静化しました。
さらに社会民主党以外の閣僚を追放することにより政権を安定させました。
講和会議では植民地のすべてを失い、本土も含め90%を失いました。
さらに賠償金は日本円にして約200兆円と訳の分からない金額を課されました。終戦を望んでいたドイツ国民もこの講和条約には大反対し、共和国政府に対する不満を募らせました。
以上がドイツ革命の始まりの経緯からワイマール共和国誕生まででした。